翌朝――朱莉は上野駅から徒歩5分程にあるウィークリーマンションで目が覚めた。1Kの6畳間に2畳ほどのロフト付きの部屋。1口コンロにバストイレ付。「フフ……何だか以前自分が住んでいた部屋みたい」いつも自分が過ごしてきたような広々とした部屋では無いが、朱莉にとっては何故かこの空間は居心地の良い部屋だった。「翔先輩と離婚が成立して、お母さんとまだ一緒に暮らせないなら、やっぱりこの位の広さの部屋に住もうかな」寂しげに言うと朱莉はベッドから起き上がり、着替えを始めた—― その後、近所のコンビニで朝食を買って部屋に戻り、テレビをつけた時にスマホに着信があった。相手は明日香からだった。朱莉はすぐにメッセージを開いて見た。『おはよう、朱莉さん。昨夜は無事に上野に着いたのかしら? 昨夜のうちに安西先生には連絡を入れておいたわ。9時には事務所が開いているそうだから申し訳ないけれども今日尋ねて貰える? お願いします』「明日香さん……」本当に明日香は以前に比べて別人のように変ったので朱莉は正直戸惑っていた。(それともこれが本来の明日香さんだったの……?)その時、朱莉の頭の中に翔と女性秘書が親し気に並んで歩いてい写真が蘇ってきた。朱莉は悲しい気持ちになったが、それでもあの女性秘書と翔が結ばれることだけは想像したくなかった。明日香を安心させる為にも、自分の為にも、何としても翔と秘書の関係を明白にしておかなければと改めて朱莉は思うのだった。9時になり、朱莉がウィークリーマンションを出ると外は冷たい小雨が降っていた。「あ、雨……。そ、それに肌寒い……。沖縄とは大違いね」朱莉は両手で自分の身体を抱きしめると、一度部屋に戻り、折り畳み傘と念の為に持って来たコートを羽織ると再び外に出た。そして玄関先で明日香にメッセージを打った。『おはようございます。これから安西弘樹先生の興信所へ行ってきます。また後程ご連絡致します』短くそれだけ打つと、朱莉はコートの襟を立てて傘をさすと住所を頼りに興信所へと向かった――**** 安西弘樹興信所――そこは上野駅不忍改札口から徒歩5分程の雑居ビルの3Fにあった。朱莉は雑居ビルを見上げながら呟いた。「まさか自分の人生の中で興信所を使うなんて夢にも思わなかったな……」このビルにはエレベーターが無かった。朱莉は狭い階段を上り、事務
「え?」一体明日香は安西に朱莉のことをどのように説明したのだろうか?「とても愛らしい女性だと、だから羨ましいと明日香君が言っていましたよ?」安西はニコニコしながら朱莉に説明する。「え? その話本当ですか?」「ええ、本当ですよ」朱莉には信じられなかった。あの明日香が自分のことをそんな風に思っているとは今迄考えてもいなかったのだ。(明日香さん……私達これから少しずつ歩み寄っていけるでしょうか……?)朱莉は心の中で沖縄にいる明日香に問いかけた。「ところで、朱莉さん。ご主人の浮気調査と言うことでよろしいのですよね?」明日香はどうやら朱莉の夫の浮気調査と言う事で安西に話を持ちかけていたらしい。「は、はい。そうです。あまり長くは時間をかけられないので出来れば3日程で調べていただけないでしょうか?」(そうだ、安西先生に不審がられないようにしっかりしなくちゃ)朱莉は背筋を正しながら尋ねた。「実は今朝、明日香君から調査費用の前払いとしてすでに50万円受け取っているんですよ。いや~流石、売れっ子イラストレーターですよね? そこで既にうちの若いスタッフ2名に昨夜から調査を始めさせているんですよ。先程、連絡が入ってきたところです」安西は机の上に載っていたノートパソコンを手に取ると、再び朱莉の前に腰を下ろした。「どうぞ、御覧になって下さい」「は、はい」朱莉は恐る恐るPC画面を見た。そこには翔と新しい女性秘書が立派な門の前でベンツに乗り込もうとする写真が映っていた。写真を見る限りでは夜のようである。「!こ、これは……?」朱莉は息を飲んだ。「これは鳴海邸の前でうちのスタッフが取った昨夜の写真です。どうも何処かのホテルで開催された記念式典に参加したようですよ。ああ、そうだ。こちらの写真も御覧になって貰わなくてはなりませんでしたね。少し、失礼します」安西は朱莉の側でPCを操作すると、次の写真を出した。そこに写っていたのは……。「え! も、もしかすると鳴海……会長……?」一度しか会った事が無かったが、画面に映る顔には見覚えがあった。実は朱莉は少しでも鳴海家の会社について学んでおこうと思い、ビジネス雑誌に鳴海グループの特集が組まれていた際には購入して読んでいたので顔はよく覚えていたのだ。圧倒的なカリスマ性、まるで鷹の目のような鋭い瞳……。画面を食い入
「あ、あの…私では判断することが出来ません。申し訳ございませんが安西先生から明日香さんに話を聞いていただけますか? お願いします」朱莉は契約結婚の秘密を話していいのかとても自分では判断を下すことが出来なかった。(だって翔先輩からこの契約婚はビジネスだと言われたから……!)朱莉はその時のことを思い出し、悲しい気持ちになってしまった。下を向いて俯いてしまった朱莉を見て安西は声をかけた。「何か深い事情がありそうですね……。いいでしょう、私から明日香君に連絡を入れてみますよ」そして安西はすぐに明日香にメッセージを打ち込んで送信し終えると朱莉を見た。「すぐに返事が来るかどうか分かりませんのでこちらで調べて今現在分かっていることを報告させていただきますね」「はい、よろしくお願いします」「今のところ、鳴海翔さんと秘書の女性、姫宮静香と言う女性とは特に親しく交際しているような雰囲気は無さそうだと調査員として動いているうちの若いスタッフがそう報告してきていますね」「そうですか」朱莉は胸を撫で下ろした。「ですが……少し気になる情報を入手いたしました」「気になる情報……ですか?」安西の言葉に朱莉の胸がドキリとした。(そう言えば翔先輩は新しい女性秘書の存在を九条さんには内緒にしていたと言ってたっけ……。そのことと何か関係があるのかな……?)その時。「おや? 明日香君からメッセージが届きましたよ。どうやら電話で私と話したいらしいですね。朱莉さん。すみませんが明日香君と話をしている間、少し席を外していただいてもよろしいですか? 個人情報に係わる話が出てくるかもしれませんので」「はい、分かりました。では一度外に出ていますね。丁度向かい側に本屋さんがあったのでそこにいます」朱莉は一度事務所を後にした。**** 本屋さんで雑誌を手に取ってパラパラとめくってみるも、明日香と安西の話の内容が気になって、少しも内容など頭に入ってこなかった。何度目かのため息をついたとき、突然背後から声をかけられた。「朱莉さん。お待たせしました。話が終わったので事務所に戻りましょう」「はい」事務所に着くと、安西がコーヒーを淹れてくれた。事務所にはコーヒーの良い香りが漂っている。「いい香りですね……」朱莉はコーヒーの香りを吸い込む。「ハハハ……実は私は少しコーヒーにうるさ
「あ、あの明日香さんからは……何所まで話を聞かされたのですか?」朱莉はギュッと両手を握りしめると尋ねた。「どこまで……と言いますと?」安西が静かに尋ねた。「私と翔さん。そして明日香さんとの関係です……」朱莉は声を震わせて答えた。「ええ、聞きました。朱莉さんは契約妻なんですね。本当の夫婦のような関係にあるのは明日香君と鳴海翔さんだと言うことも。朱莉さんは大変な役目を引き受けたのだと思いましたよ」「あ、あの! 私は……」朱莉が言いかけたところを安西が言葉を重ねてきた。「安心して下さい」「え?」「我々調査員は絶対に依頼主の情報を何処かに漏らすような真似は絶対にしません。ましてや明日香君は私の教え子でもある。そこは安心して下さい」安西の目は優し気に朱莉を見つめていた。「電話で明日香君が貴女に悪いことをしたと泣きながら言っていましたよ」「明日香さんが……」「沖縄に戻ったら話がしたいと言ってました」「そうですか……」(明日香さん……)朱莉は明日香との距離が少し縮まるのを感じた。「さて、朱莉さんと翔さんが仮の夫婦だとなると、ますますそのメッセージが怪しいことになりますね。恐らくメッセージを送った相手は明日香君と翔さんの関係を知っている人物と言うことになります。何せあのメッセージを朱莉さんでは無く、他でも無い明日香君に送ってきたのですから」「そうですね。普通に考えれば私にメッセージを送ってくるはずでしょうから」「ええ。それで一つ気になる点があります」「気になる点ですか……?」「ええ。実はこちらの秘書の女性についてです」「秘書……姫宮さんのことですか?」「ええそうです。実はこの女性、調べたところ鳴海グループの現会長の秘書を以前していたようですね」「え!? ほ、本当ですか!?」朱莉はその言葉に衝撃を受けた。「ええ。こちらでこの女性のことを調べていたらある記事を見つけたんです。3年ほど前の記事になるのですが」言いながら安西はPCを操作すると、朱莉に画面を見せた。「ほら、この映像を見て下さい。会長の写真ですが、その背後に立っている女性です」「え……?」すると会長の背後に立っていた女性は姫宮静香だった――****何所をどう帰って来たのか、気付けば朱莉は今賃貸中のウィークリーマンションに帰りついていた。安西が見せてくれた画
朱莉は鳴海グループ総合商社にやって来た。手には大きな花束を抱えている。ここに来るのは朱莉が面接試験を受けに来て以来。正に1年ぶりだった。目の前にそびえたつ巨大な高層ビルを見上げながら朱莉はポツリと呟いた。「相変わらず、凄い会社……。でも世界中にある会社だもの。大きくて当り前ね」(こんなに大きな会社じゃなくても、いつか私も何処かの会社で正社員として働いてお母さんと暮せたらいいな……)朱莉は意を決すると、ビルの中へ入り……すぐに行き詰ってしまった。(どうしよう、勢いで会社まで来てしまったけど考えてみれば偶然翔先輩が出てくるはずも無いし……会えるはずなんてそもそも無かったのに……)朱莉は今更自分の取っている行動が無謀だと気が付いた。(こんな時、九条さんがいてくれれば……)そこまで考えて朱莉はすぐに考えを打ち消した。(馬鹿ね、私ったら。今何を思ってしまったのだろう)琢磨はもうこの会社にはいない。翔にクビを言い渡されてからは一切音信不通になってしまったのだから。今現在どこで何をしているのかも朱莉には分からないのだ。「これ以上私に関わればもっと迷惑をかけてしまうに決まってる。だから、きっと九条さんは……秘書をやめて正解だったんだ……」朱莉は自分に言い聞かせ、正面に座っている受付嬢の所へ行くと声をかけた。「あの……副社長室にお花をお届けに参りました。秘書の方に渡したいのですが」ドキドキとうるさい程に朱莉の心臓は高鳴っている。まるで今にも口から飛び出るのではないかと思う程であった。そんな朱莉を見て受付嬢は怪訝そうな顔を見せた。「あの……どちらからのお届けなのでしょうか?」「はい。副社長の奥様でいらっしゃる鳴海朱莉様からの依頼でございます。注文を受けたのでお届けに参りました」これは朱莉が必死で考え着いた嘘である。何とか翔の新しい秘書と接触出来ないか、散々考え抜いての策だったのだが……。「副社長の奥様からですか? それでは少々お待ちいただけますでしょうか?」受付嬢は内線電話をかけると、繋がったのだろう。少しの間何か会話をしながら時々、こちらに視線を送ってくる。やがて内線電話を切ると、受付嬢は朱莉に声をかけた。「今、副社長の秘書が参りますので少々お待ちください」「はい。分かりました」朱莉は少し下がったところで翔の新しい秘書がやって来るの
「あ、あの……すみません!」「はい。何でしょうか?」振り向く姫宮。「実は伝言を頼まれたんです」「伝言ですか?」「はい。実は副社長がお忙しそうだと思い、なかなか自分からメッセージを入れにくいので伝言を伝えておいて下さいとお願いされたんです。車を買いました。ありがとうございます、仕事が終わった後連絡下さいとのことでした。副社長に伝えておいていただけますか?」朱莉は頭の中で何度もシミュレーションした台詞を口にした。「……分かりました。副社長に伝えておきますね」姫宮は一瞬訝し気な目で朱莉を見たが、一礼して去って行った。その後ろ姿が見えなくなるまで朱莉は見送った。心臓はまるで早鐘のように打っていたが、何とか姫宮と接触を果たすことが出来たのだ。「怪しまれないうちに早く帰らないと……朱莉は足早にビルを後にした――**** ウィークリーマンションに辿り着いても、まだ朱莉の心臓はドキドキしていた。「私ってこんなに大胆なことが出来る人間だったんだ……」震える両手を見ながら朱莉は呟くと、突如メッセージの着信を知らせるメロディーが鳴った。「え?」朱莉はメッセージの相手を見て驚いた。それは姫宮からだったのだ。(ま、まさか……姫宮さんは私の顔を知っていて、さっき会社を訪ねたのが私だってばれてしまったの……?)朱莉は震えながらスマホを握りしめ、緊張しながらメッセージを開いた。『奥様。姫宮でございます。ご無沙汰しております。先程花屋の女性から花束を受け取り、副社長室に飾らせて頂きました。奥様によろしくとお話ししておりました。夜に電話を入れることを伝えるように言われたのでご連絡させていただきました。それでは失礼致します』朱莉は姫宮のメッセージを読むと安堵のため息をついた。「良かった……姫宮さんには私のことがばれなかったみたいで……でも…」朱莉はそこで悲しそうな顔をした。「多分翔先輩は明日香さんの話は姫宮さんに話しても……きっと私のことは姫宮さんには話していないんだろうな……私の顔だって知るはずないよね」そう、所詮自分は仮初の妻。後数年もたてば、朱莉と翔の離婚が成立して2人はまた元の赤の他人に戻る……それだけの関係。(でも姫宮さんと翔先輩の関係はこの先もきっと続くんだろうな……)それを思うと、朱莉は無性に寂しい気持ちに襲われるのだった――****
7時―― 朱莉は部屋のカーテンを開けた。まだ東京は梅雨明けをしていないので、空は灰色の雲で覆われて雨がシトシトと振っている。その憂鬱な空を見上げながら朱莉は溜息をついた。結局昨夜は一度も翔から連絡が入らず、心に引っかかっていたのだ。(姫宮さんが伝言を翔先輩にわざと伝えなかったか、それとも翔先輩が忙しくて連絡を入れられなかったのか……その内のどちらか1つなんだろうけど……)出来れば後者であって欲しい……もし仮に姫宮が朱莉からの連絡を翔に伝えていなければ、もう翔からは連絡がこないかもしれない。気付けば朱莉は窓の外をボンヤリと眺めていたが、こうしていても仕方が無い。今日は億ションへ一度着替えを取りに戻ろうと思っていたので、朱莉は出掛ける準備を始めた。どうせあと数日でこのウィークリーマンションを出なくてはならない。今回朱莉が東京へ出てきたのは翔の浮気調査が目的で、あまり気分の良いものではなかった。何をするにも憂鬱な気分で、朱莉は料理をする気力も持てなかった。朝食を買いにコンビニへ行こうと、玄関で靴を履いて傘を持った時に、スマホに着信が入った。(まさか、翔先輩!?)期待しながら確認すると、それは明日香からであった。(明日香さん……)昨夜は翔からの連絡は来なかった。その事を告げるときっと明日香は落胆するだろう。明日香のことを思うと気が重かった。一体どんなメッセージを送って来たのだろうか……。『おはよう、朱莉さん。今朝のニュースで東京の天気を見たけれども、梅雨の寒い日が続いているそうね。風邪引かないように温かい恰好をしていた方がいいわよ。最近お腹の調子が良くなってきたの。退院できる日が楽しみだわ。そしたら何か貴女にお礼させてちょうだい』「明日香さん……」明日香のメッセージを読んで、朱莉は目頭が熱くなった。本当は翔のことを尋ねたいはずなのに、朱莉のことを気遣って、報告をじっと待っていようとする明日香の気持ちが伝わってくる。朱莉は明日香にメッセージを書いた。『おはようございます。明日香さん。こちらは確かに寒いですが、コートを持って来ているので私は大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。数日以内には沖縄へ戻ります。その時には明日香さんにとって良い報告を持って帰る事が出来ればいいなと思っています』内容を確認すると、メッセージを送信した。朱莉は
翔が琢磨をクビにしたという話は翔から電話で聞いた。明日香は驚いて理由を尋ねたが、翔の話では互いの方針が合わなかったからクビにしただけだとしか答えず、明確な理由を教えてもらうことは出来なかった。おまけに琢磨はスマホも解約してしまったのか、全く繋がらなくなったし、会社で使っていた専用のメールアドレスも当然エラーで戻ってきてしまう。個人用のフリーメールアドレスも同様だった。てっきり朱莉にだけは新しい連絡先を教えているだろうと思っていたけれども、朱莉も教えて貰っていないことを知った時は流石に驚いた。「翔……どうして琢磨をクビにしたのよ。朱莉さんから琢磨を遠ざける為に? ひょっとして、翔は……」しかし、明日香はそこで言葉を飲み込んで時計を見つめた。時刻は9時になろうとしている。今日はこれから超音波検査と採血がある。明日香はお腹にそっと手を当てた。未だにお腹の子供に特に何かを思うことは無いが、実際に子供を産めば自分の心の中が何か変わるのだろうか?だが、明日香には自信が無かった。何故なら明日香自身、母親から抱き締められたり、愛情を注がれた記憶が全く無かったからだ。母の愛情が欲しくて欲しくて堪らなかった。しかし母はいつも明日香に背を向け、とうとう明日香を、鳴海家を捨てて愛する男性の元へ行ってしまったのだ。最後まで明日香を顧みる事無く……。 明日香は子供に愛情を注ぐ方法が分からない。だからこそ自分の代わりに数年だけ子供を育ててくれる女性が欲しかった。他人が子供を育てる様を見てどうやって子供に愛情を注げばいいのか学びたかったのかもしれない。きっと心優しい朱莉なら愛情を持って子供を育ててくれるだろう。そしてその後は……?「翔……」明日香は天井を見つめ、ポツリと呟くのだった—―**** 朱莉は昨日と同様にウィッグにカラー眼鏡という格好で六本木にある億ションを目指して歩いていた。雨が降っていたのは幸いだった。何故なら傘で顔を隠して歩くことが出来るからだ。いつもとは違う派手めなメイクに、付けたことも無いイヤリングを今はしている。朱莉だとバレることは無いだろうが、用心に越したことはない。 エントランスに到着する前に、あらかじめ持参してきたつばの広い帽子をかぶり、中へと入る。すると、その時偶然エントランスの自動ドアが開き、中から1組の男女が現れた。朱莉は顔を見ら
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると